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事務所で愛用するカップ&ソーサー.
フィンランドの名作デザインのひとつだ.
TEEMAは日本の売り場ではティーマと表記されるが,正しい発音はローマ字読みでテーマである.ブランドのiitalaはイッタラではなく,イイーッタラ.人からずっと呼び間違いをされている人のようで,少しかわいそうだ.
デザインはフィンランドデザインの”良心”と評される巨匠カイ・フランク.
僕の大好きなデザイナーだ.
このTEEMAを眺めているといつもデザインの原点に戻ることができる.
何のためのデザインか,誰のためのデザインか.ある人はこのカップを見て,ずいぶん退屈なデザインだと思うかもしれない.なにこれ,普通じゃない?
しかし,このカップに足りない要素はあるだろうか.
奇をてらわず,握りやすい取手と使い勝手の良い大きさ.丈夫さとリーズナブルな価格.ソーサーにはカップのへこみがないので,そのままお皿としても使える.
何も足さない,何も引かない.
おそらく,意気盛んなデザイナーは常識を壊すところからデザインをはじめることだろう.世間をあっと言わせるサプライズこそがデザインであると.
否定はしない.あるいは非日常を演出する商業デザインならその通りかもしれない.
しかし,生活のデザインは違う.生活に向き合う視点.
北欧デザインの本質は常にそこにある.
ではデザインはシンプルで機能的であればそれでいいのか.それは断じて違う.
そこには思想がなくてはならない.生活へと向かう誠実で確かな思想が.
平凡なデザイナーには平凡な日常に向き合うことはできない.
TEEMAは究極のデザインだと思う.フィンランドデザインの思想がそこにはある.

2年ほど前の夏,駐車場にいきなり亀がいた.なぜ亀?
以来家のバルコニーで飼っている.
冬の間は家の中に入れてあげるのだけれど,目を離すとすぐにいなくなる.
亀は”のろま”の代名詞であるがとんでもない.亀を飼ったことがある人ならみな口を揃えていうのは,亀のそのすばしっこさである.
性格が暗いのか,隙間を見つけてはそこに納まろうとする.そしてぴくりとも動かず冬眠してしまう.夏はバルコニーを行ったり来たり,所在なげに何度も往復する.
亀を見ていると癒される.日中覗くとあられもない格好で昼寝をしていたりして,そのまぬけぶりがまた実にかわいい.
先日見たら,なんとルーバー手摺りを登っていた.虫かごを足がかりにして.
この運動神経はすごいと思う.
写真を撮ろうと近づくと,いつもは首や手足を引っ込めるのだけれど,この姿勢でひっこめたら落ちると思ったのだろう.ただなすすべなく,ばつが悪そうに固まっていた.
やっぱり亀はまぬけでかわいい.

いくつか原稿仕事を頼まれている.
プロフィールにも書いているように,基本的に文章を書くのは好きだ.だからこうして寄稿を頼まれるとすごく嬉しいし,楽しい.(ただし内容は自分に興味のあること限定で)
でも今は片手間や趣味の延長だからいいけれど,きっとこれを本業にしたらきっとそこにはものすごい生みの苦しさが待っているんだろうなとも思う.
ただの建築好きと建築を設計できるということとは違うし,そこから先に人から共感してもらえるような建築を設計できるかどうかというところにも太い一線が引かれている.そこがプロと素人を隔てる境界線なのだろう.
うん,やっぱり僕は建築の方で….
文章を早々に書き上げて,寝かしておくこの時間が好きだ.
こうして毎朝目を通して,少しずつ赤を入れてゆく.
以前とあるクライアントとの面談が終わり,席を立とうとした時唐突に質問を受けた.
「関本さんにとって,建築とはなんですか?」
うっ,いきなりのど直球.しかも気を抜いた瞬間にやってきたストライクに一瞬ひるんで,とりあえず浮かしかけた腰をもう一度落ち着かせた.その時は少し動転して,なんと答えたかよく覚えていないのだけれど,一瞬しどろもどろになってしまった自分が情けなくて,それ以来その問いを考え続けている.
実のところ学生のときから「建築ってなんだろう?」と漠然と考え続けてきた.今の学生にも同じような問いをしたことがあるし,自分なりにぼんやりとイメージするものがあるのは確かだけれど,いざそれを言葉として取り出そうとすると違和感だけが残るような気がして,なかなか口に出せずにいた.
今あえて言葉にするとすれば,建築は「コミュニケーション」そのものだと思う.
クライアントとの打合わせはもちろんだけれど,図面を描くのも,模型をつくるのも,現場に行くのも,すべてはコミュニケーションだ.また言葉もそうだし,メディアもそう.僕がこうしてブログをせっせと書いているのも,建築の一部とも言えるかもしれない.すべては自分の考えを相手に伝えたい,相手のことを理解したい.それに尽きる.それこそが建築のはじまりなのだと思う.
さらに言えば,我々は直接依頼してくださったクライアントのみならず,その地域の人々や通りすがりの人たちも巻き込んでゆきたい.その家の前を偶然通りかかった人たちが一瞬なごんだり,足を止めて見上げてくれるようなことがあれば,そこには立派なコミュニケーションが成立していると思う.
ひとりの人間が周りを巻き込んでゆくように,一件の小さな住宅が街並みや通りすらも変えてしまうことがある.我々が目指すゴールは常にそこにあるのだと思う.
先日あった建築家同士の飲み会での話.
同世代の知人の建築家は,できあがった自分の建築に対していわゆるコンセプトを語るのが苦痛だと言っていた.コンセプトなんて書かなくてもいい.彼は建築メディアはなぜコンセプトを語らせたがるのか,と辛辣なメディア批判に息を巻いていた.
この問題にはらむ矛盾や,もっともらしい意見があることも承知の上で言うならば,僕は彼の考えに同意する.コンセプトを歯切れ良く語れる建築なんて,僕も”うすっぺらい”と思う.
ただ誤解のないように言うと,コンセプトは必要ないのではない.建築の方向性を決定づける考え方は絶対的に必要だ.それがなかったら,それは建築ですらないからだ.
けれども建築のプロセスは一本の太い道からはじまり,そこから枝分かれしたり,回り道をしながら最終的なゴールへと行き着く.一本の道でまっすぐ作られた建築は排他的ともいえる.そうではないものをすべて排除する.そこには迷いがないのか,あるいは隠しているのか.そこには嘘がある.そんな建築は身を置いてみればすぐにわかる.
しかし建築メディアは自己完結した一本道を示した方がわかりやすいから,結局そういう建築ばかりが誌面に並ぶことになる.それは罪深いことなのだ,そう彼は言いたかったのだと思う(でも彼は酔っていて,皆の集中砲火を浴びて少し気の毒だった).
僕の好きなアールトや内藤廣さんの建築に共通しているのは,常に普遍的な空間と迷いが同時にそこにあるということだ.その迷いの”ひだ”が我々を包みこむ.そんな空間に僕は救いを感じる.
昨日は尊敬する建築家の益子義弘先生にも,お酒を呑みながらそんな話をしてみた.
先生はコンセプトの話には触れず「よい建築とはまた帰って来たくなる建築だと思う」とおっしゃった.その一言ですべてが腑に落ちた気がした.
