Finnish Archtecture |
僕の好きなフィンランドの建築 |
フィンランド建築探訪 2001 /夏 |
ヘルシンキ在住のプロカメラマンSHUHEIとの出会いがキッカケとなりこの夏フィンランドの建築を二人でくまなく見て廻るという企画を立てた。写真はもちろんSHUHEI、そしてテキストは僕。この二人三脚がどこまで続くか今のところわかりませんが出来るだけたくさんの建築を紹介してゆきたいと思います。 この企画はSHUHEI自身が運営する彼の写真のウェブサイトと同時進行で進んでゆきます。僕のは文章メインで彼のは写真がメイン。ここには載せられない細かいショットなど、彼のページも平行してお楽しみ下さい。 カメラマン・SHUHEI氏のウェブサイト WWW.SHUHEINEZU.COM |
フィンランド・アールト探訪 2001 〜アールトのフィンランド〜 |
Vol.11
(最終回)
01/08/17
Eira地区, Katajanokka地区
19世紀末〜20世紀初頭
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今回ちょっと異色な建築群を取り上げてみた。ユーゲント様式によるアパート群。ユーゲントとは分かりやすく言い換えればアールヌーボー、つまりパリの街並みなどに見られるようなツタが絡まるような曲線的装飾を想像してもらえば良いだろうか。 ヘルシンキにもこうした様式による装飾的建築群が多く現存しているエリアがある。有名なのはエイラ地区、カタヤノッカ地区など。それぞれヘルシンキの北端、東端に位置するエリアである。 これらを設計していたのは名もないRakennus Mestari(ラケンヌス・メスタリ)達。直訳するとビルディング・マスター(工匠)ということになる。彼らは建築家ではない。普段はむしろ建築家の下で現場監理などを行う裏方的存在の技師達である。 正式な建築家教育を受けていない彼らであるが、お偉い建築家達とは異なり、彼らは人々が本当に求めている住宅というものを知っていた。優美な装飾に包まれた文化的生活。その証拠に彼らの手によるこうした住宅群は当時のヘルシンキにおいて圧倒的な人気を誇っていた。 彼らの造形はどこかぎこちなく、美的には特に特筆すべき装飾ではない。しかし民衆に支持された形のこうしたアパート群があっという間にヘルシンキの街並みを席巻していった、という事実は都市というものの本質を語っているようで興味深い。 今回ここに掲載した写真はそのわずかに一部である。これらの地区は散策にも最適。フィンランド人カップル達のデートコースになっているというのもうなずける話である。 |
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エイラ地区、カタヤノッカ地区/Eira, Katajanokka |
Vol.10
01/08/12
Helsinki Central Station
/ Eliel Saarinen
1919
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ヘルシンキ中央駅はまさに20世紀を代表するフィンランド建築である。しかしその裏側にあった多くのスキャンダルを語らずしてこの駅を語ったことにはならない。 当初鉄道局はこの駅の設計をドイツ人建築家に特命発注すべく、当局は一切の情報をひた隠しにしてきた。公共建築の設計はすべてコンペで決めるのがこの国のルールである。ましてや国を代表するであろう駅の設計故に、これを知った国内の建築家は猛反発。設計は白紙に戻され1904年コンペは一般に開かれた。 このコンペを制したのがエリエール・サーリネン。アールト以前の国家的建築家であり、ナショナルロマンティシズム(*)の中心人物である。彼はすでに国立博物館のコンペをリンドグレンらと共に制しており、この中央駅でも前回評判が良かった重厚なナショナルロマンティシズム様式で再度応募したのである。 この駅は彼個人のエントリー作品。他にもこれに酷似した案をリンドグレンら共同名でも応募しているが、当然こちらは失格となった。このコンペをどうしても取らなくてはならなかったのだろう。国家的建築家としての使命とプライドが感じられるところである。 これに異議を唱えたのが若い建築家達である。時代は既に20世紀。いつまで懐古的様式を続けるつもりか、と。新しい試みを中央駅に、と願っていた彼らにしてみれば大いに失望したであろう。結果的にサーリネンは激しく世間の批判を浴びることとなる。 彼は自身の勝利した設計案の抜本的見直しを決意する。彼は事務所を解散し、世界へと旅立つ。多くを吸収した帰国後、大きな設計変更を経て1919年、ようやくその完成を見た。 エリエールはこの作品を最後にアメリカへと移り、その息子エーロはアメリカを代表する建築家として世界にその名を知らしめて行くことになる。そしてフィンランドを覆っていたナショナル〜様式は終焉を迎え、時代はアルヴァー・アールトへと移ってゆくのである。 ひとつの時代が残した大きな遺産。大きな吹抜け空間の下でぜひそれを感じて欲しい。 *ナショナル・ロマンティシズム フィンランドのルーツを民族叙事詩「カレワラ」に求め、フィンランド独自の文化を築こうとした民族的自覚運動。 |
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ヘルシンキ中央駅/Helsinki Central Station |
Vol.9
01/08/01
Chapel of the Resurrection
/ Erik Bryggman
1941
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アールトを越える可能性を秘めた建築家がフィンランド建築史に一人だけいた。いや「越えていた」のかもしれない。エリック・ブリュッグマン。アールトより、わずかに6年先に生を受けた建築家である。 ブリュッグマンはスウェーデン系フィンランド人。フィンランドの中でもスウェーデン文化を色濃く残すトゥルク周辺には彼の建築を多く見つけることができる。このリスレクション(復活)教会はそんな彼の作品の中でも最高傑作と言われるものだ。 彼の作品に流れる静かな哲学と確かなディテールは明らかにフィンランドのそれとは香りが異なる。アスプルンドを頂点とする最高のスウェーディッシュモダンを感じさせてくれるのだ。 トゥルクに事務所を構えていた若きアールトは一時期ブリュッグマンとも協働していたと聞く。しかし彼の図面能力は既にアールトを越えていた。わずかな期間の後にアールトはヘルシンキへと事務所を移し、その後の彼は独自の道を突き進む事になる。アールトは彼に敗れたのである。 不幸なことにブリュッグマンは巨匠の名がつく前に急逝してしまった。その後二度とフィンランドにはブリュッグマンの系統を引く建築家は現れる事はなかった。 アールトはその貪欲な生命力によって生き残り、歴史に名を刻んだ。歴史とはいつも皮肉なものである。 |
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リスレクション教会/Chapel of Resurrection | ||||
トゥルク(ヘルシンキより2時間)よりバスで約10分。 トゥルクの南、Uudenmaan大通り沿いトゥルク・セメタリー内。 |
Vol.8
01/07/27
Olympic Stadium
/ Yrjo: Lindegren, Toivo Ja:ntti
1938
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ヘルシンキと聞いてオリンピックを思い浮かべるのは私の親の世代かも知れない。 ヘルシンキオリンピックが開かれたのは1952年。しかしこのスタジアムの完成は1938年。このタイムラグにまず疑問を持たないだろうか? 実は1940年に開催される予定であった東京オリンピックを日本が政治的理由から返上してしまったために、ヘルシンキが代理で大会開催を引き受けたのだ。しかしその後の大戦の戦火により大会は中止。その後戦後復興の象徴として52年にようやく開かれたのがヘルシンキオリンピックだったのである。 30年代の純粋な機能主義に基づく造形は、フィンランド国内に多くの傑作と呼ばれる建築作品を作り出した。このオリンピックスタジアムはそんな時代が産み出したフィンランド近代建築における傑作中の傑作とも言えよう。 ヘルシンキで最も美しい建築は?と問われたらフィンランディアホールではなく、オリンピックスタジアムと言ってみよう。フィンランド人の建築家とは仲良くなれるかもしれない。 |
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オリンピックスタジアム/Helsinki Olympic Stadium | ||||
ヘルシンキ中央駅よりトラム3,7,4,10番。約10分。 |
Vol.7
01/07/11
Peta:ja:vesi Church
/ Jaakko K. Leppa:nen
1764
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北の果てフィンランド。そしてその深い森に囲まれたユヴァスキュラ周辺の中部内陸地方は、ヨーロッパ文化からは永くに渡って隔離された土地であった。 この18世紀に建てられた木造教会は建築家の手によるものではない。J.K.レッパネンという棟梁の手によるものだ。こうしたヨーロッパから隔離された文化背景は時として非常にユニークな建築を創り出す事がある。 ヨーロッパ文化に憧れながらも、それがどういうものであるのか、という情報がない状況で棟梁たちはそれぞれ見様見真似で数々の木造教会を作り上げた。それは日本の棟梁達が文明開化の明治時代に競って建てた「擬洋風建築」と呼ばれる和洋折衷の建築群と背景は似ていなくもない。 森は開かれた今、この地に残る木造教会群は当時のこの地の文化を色濃く伝える尊い遺産だ。 1994年、ペタヤベシ教会はユネスコの世界遺産に指定された。 |
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ペタヤベシ教会/Petajavesi Church | ||||
中央フィンランド/Petajavesi ユバスキュラよりバス。約30分 |
Vol.6
01/06/25
Ma:nnisto: Church
/ Juha Leiviska:
1992
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色を帯びた光がどこまでも空間に溶け込んでゆく。光を導く壁は、あたかも風にそよぐカーテンのようだ。彩、幽玄、そして浮遊...。 彼がミュールマキの教会で見せた光の手法が、ここではより軽く、より高度に、そして緻密に構成されている。ここに至って彼の芸術的空間はようやく完成の域に達したようだ。 祭壇に建つ白い壁の裏側には黄色、青、赤、様々な色が塗られている。もちろん正面からは見えない。しかしスリットから差し込む光が反射して壁にかすかな色を落とす。 ミュールマキが”Silence”内省の空間であるとしたら、このマンニストは”Celebration”神への祝福。喜びの空間。 レンガとコンクリートという重く、普遍的な材料。しかしこの空間に踏み入れた時に感じる無重力は、どんなに細い鉄骨でもガラスでも実現することはできない。 ユハ・レイヴィスカの魔法。 |
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マンニスト教会/Mannisto, Kuopio | ||||
中央フィンランド/Kuopio (鉄道でヘルシンキより5時間半) マーケット広場よりバス14番。約10分 |
Vol.5
01/06/09
Kiasma
/ Steven Holl
1998
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ヘルシンキ現代美術館"KIASMA(交差)"。文字通り文化、歴史、交通全てが交錯するこのポイントに建つ美術館として、最もふさわしい名称である。 建築家スティーブン・ホールはノルウェー人の祖父を持つアメリカ人。'93年の国際コンペによって選ばれた彼の案は、その現代的な外観ゆえに当時はヘルシンキでも景観論争を巻き起こした。 しかし今では多くの市民に愛され、夏にはここの広場で日光浴を楽しむ人たちでも溢れかえる。それは偶然ではない。そこには彼の非常に緻密な計算と、フィンランドの自然に対する深い洞察力がしっかり裏付けられているからだ。 美術館設計の定石は「四角いトウフ」だとよくいわれる。言うまでもなくフレキシブルな展示構成が可能だからだ。しかし彼はまずその常識を覆した。彼はその展示空間の最も適切な寸法を割り出すのにニューヨーク中のギャラリーをリストアップし、くまなく歩いて実測したという。また、そのうねる外壁のラインはヘルシンキにおける太陽のルートを注意深く落としたものでもある。 曲線部と直線部のKiasma(交差部)からは、暗い真冬時でも明るい太陽光が落ちてくる。エントランスをくぐって見上げるその空間は、あたかも海に浮かぶ氷塊を下から見上げたかのようだ。 スティーブン・ホールはのちに語っている。 「他のコンペ案を見たときは愉快だったね。それらは全て我々が試み、議論し、そして捨て去ったアイデアばかりだったから。そう、我々は最もベストの選択肢をこのコンペで選んだんだ。」 |
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キアズマ(ヘルシンキ現代美術館)/Mannerheiminaukio 2, Helsinki | ||||
ヘルシンキ中央駅より徒歩3分 |
Vol.4
01/06/02
Sanomatalo
/ SARK(Jan Sorderlund & Antti-Matti Siikala)
1999
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ヘルシンキ中央駅からテーレ湾に向けての大きな広場は将来的に大きな都市開発計画が控えている潜在的な建設エリア。そんな新しい街並みを予告するかのようなガラスの殿堂がここサノマタロ。ヘルシンキ新聞社の本社ビルである。 設計を担当したSARKは現在フィンランドでノリにノっている建築家グループ。ヘルシンキ近郊の新しい都市開発の波に乗って、今までフィンランドでは建たなかったような総ガラス張りのオフィスの設計やコンペティションなどで快進撃を続ける。 フィンランドの建築シーンは現在いわゆる「第三世代」と言われる新しい建築が多く目立つようになってきた。つまりアールトを「第一世代」とした時、アールトの教えを忠実に守ったユハ・レイヴィスカなどの世代が「第二世代」。そして今、アールトの呪縛から解き放たれたインターナショナル・スタイルがフィンランド現代建築の主流となりつつあるのだ。 しかし、どこまでも透明であろうとする世界の潮流に乗ることはフィンランドにとってもある意味多くの危険を秘めている。実際、斬新ではあるが風土を捨て去ったそのファサード(外観)や巨大なスケールは無味乾燥で、「古き良き」を尊重するフィンランド人達からはずいぶんと批判の声もあがっている。 現代的なエッセンスを取り入れながらフィンランドらしさを追求してゆく、そんなフィンランドらしい「第四世代」の登場が待たれるところだ。 |
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サノマタロ(ヘルシンキ新聞社)/Postikuja 2 ,Helsinki | ||||
ヘルシンキ中央駅、すぐ目の前。 |
Vol.3
01/05/31
Vallila Library and Day-care Center
/ Juha Leiviska:
1991
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古い木造建築の並ぶ歴史的街並みだったヴァリラ地区も度重なる開発により現在ではほとんどその面影をとどめていない。しかしユハは敢えてそこに図書館を制約の多い木造で建てることにこだわった。 しかし木造は木造でもユハの手にかかると空間はかくも美しく昇華するものだ。機会があったら平面プランを見て欲しいのだが、複雑に交錯した膨大な線の数はこの架構の複雑さを表している。しかしそんな複雑な線も一つの大きな光の空間へと収斂し、その外観もまたその周囲の歴史に敬意を払うかのように沈黙している。 この図書館の最大の特徴は何と言っても保育施設と図書館が中庭を介して向かい合っているその配置計画にある。つまり人々は読書の合間に子供達を眺め、子供達は窓の向こう側の大人の空間に想いをはせる。中庭を介した世代を越えたコミュニケーション。 控えめだけれどどこまでも温かい、そんな空間である。 |
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ヴァリラ図書館 /Paijanteentie 3-5 ,Helsinki | ||||
トラム6番または8番、Hermanni地区に入ったら下車。 Open: Monday - Thursday 10-20, Friday-Saturday 10-15 |
Vol.2
01/05/21
Myyrma:ki Church and Parish Center
/ Juha Leiviska:
1984
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この空間に初めて足を踏み入れた時の事は今でも覚えている。その豊かな光に包まれながら、僕は力無くいつまでも佇み続けた。 ユハ・レイヴィスカ。彼は世界的な建築家であると同時に音楽的な才能にも恵まれ、エンピツの代わりにピアノの鍵盤を叩きながら空間のイメージを固めてゆくというエピソードでもまた有名。そんな彼の空間はしばし「音楽的」と評されることもある。孤高のステージの上で光と空間の旋律を自在に操る、そんな建築家。 僕は彼に会いに行った。彼はその建築のイメージと寸分違わぬとても温かい人だった。その際に僕は彼の朴訥とした口から興味深い言葉を聞くことが出来た。 「タニザキの光」 ...言うまでもなく谷崎潤一郎の「陰影礼賛」(日本の淡い光と陰を愛でる情緒を記した名著)のことである。僕が日本人だったためのリップサービスだったのかもしれない。でも僕はなぜ彼の建築に惹かれるのか、一瞬にして理解できたような気がした。彼の空間はまさしくかつての日本建築が持ち、今は失われてしまった「光」ではなく「陰」の空間なのだ。 今回撮影に当たっては修平氏と一緒に立ち会い、アングル等について細かに注文を出させてもらった。僕をヘルシンキに呼び寄せた、そんな思い入れのある空間である。 |
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ミュールマキ教会 /Uomatie 1,Vantaa | ||||
ヘルシンキ中央駅よりVantaankoski行き電車(M線)で約15分。Louhela駅下車、すぐ目の前。日曜日の朝はミサが行われているが、お昼以降であればOK。 |
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ヘルシンキの地盤は一枚めくると全て固い岩で出来ている。そして市内を歩いているとそんな岩が所々に顔を出し、そんな岩を避けるようにぽっかりと岩を囲んだポケットパークが所々に形成されている。 |
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テンペリアウキオ教会 /Lutherinkatu 3, Helsinki | ||||
ヘルシンキ中央駅より徒歩約10分 | ||||
Open daily 9:00 - 19:00 (10/1より) Mon-Fri 10:00 - 16:00, Sat 10:00 - 18:00, Sun 12:00 - 18:00 |