先日ポールヘニングセンに関する資料を読んだ。
ポール・ヘニングセンといえばデンマーク照明の”父”であり、北欧が生んだ照明デザインの巨匠である。おそらくPHランプといえば誰しも一度は目にしたことがあるかもしれない。
そんな彼の言葉にこんなものがある。
「家庭の人工照明の役割は、言うなれば黄昏時の状態を延長するものとして考えるべきである」
つまり黄昏時特有の暖かみのある色の光のみによってこれが実現できる、と力説する彼の思想に僕は大きく共感すると共に、僕はあの北欧の夏の風景を思い出していた。
白夜の中のコテージで、我々は夜更け近くまでテラスでグラスを傾けた。次第に森が深く朱く染まってゆく。ああ、あの光だ。北欧の光というとよく引き合いに出されるのが冬の暗さであるが、僕にとって忘れられないのはむしろ夏の黄昏時に見せる切なくなるほど温かで仄かな、あの光である。
僕は今でも建築計画で最も大切なのは、照明計画であると信じて疑わない。人間の目というものは不思議なもので、同じ照度の器具があっても感じる明るさというものは違うものである。逆説的に聞こえるかもしれないが、照らすということは陰をつくることだ。このコントラストによってわずかな光が深い意味を持ちはじめる。
思ってみると僕は新しい空間に入るといつもこの光ばかりをチェックしているような気がする。そしてイイナと思う空間にはいつもほのかな光と陰があるのだ。だから僕はとても疲れる。たまたま入ったお店などがひどい照明計画だったりするとひどく腹が立つしストレスがたまるからだ。
話が逸れてしまったけれど、自分の思い通りの光を描くことはとても難しい。照度という言葉はあるけれど、照明方法によって光は簡単に足し算することができない。多くの照明エンジニアが陥りやすいのはこの点であると僕は思う。
人間の心は温かな光の下で育まれるものだと僕は未だに信じている。コペンハーゲンの住宅の窓辺にさりげなく灯るPHランプは本当に美しかった。あの住宅で育つ子供はきっと豊かな感性をもつに違いない。僕のイメージする”家”とはそういうものだ。
最後にヘニングセンによる強烈な皮肉を引用したい。
「一本のアクアビットを作るには大量のじゃがいもが、一本のシャンベルタンには沢山の葡萄が必要だ。葡萄を生のまま食べることはできるし、おなかをふくらますことは出来るだろう。しかしそれだけで満足するならばあなたはかなり鈍感な人に違いない」
どうだろう、食卓にぶら下がる大量の葡萄を外してシャンベルタンで乾杯しませんか?