舞台裏 2001/07/19 |
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建築について 小さい頃からいわゆる図画工作は得意だった。よくお菓子や牛乳の空き箱を利用して一人で工作をしている、手のかからない子供だったように思う。小さい頃の夢は「大工さんか電気屋さん」であった。 建築との初めの出会いは、高校に上がるときに家を新築して引っ越す事になったとき。この時設計を担当していたのは、当時マンションなどをよく設計していたデベロッパーのような会社で、今になって見るとあまり設計は良くないのだが、それなりに当時の流行していたポストモダン風の住宅で、担当者が持ってきた青焼き図面を見て憧れを抱いていたことは確かである。 その後高校でも、建築学科に行くことを早々に宣言、迷うことなくそのまま大学の建築学科へと進むことになる。 大学は思った以上に構造や工学系の授業が多かったのには閉口したが、図学や製図の授業は非常に楽しかった。課題が出ると、それこそ寝る間も惜しんでスケッチを描いたり資料を集め、1週間前からプレゼにかかり、毎回かなり目立った図面を出していた。提出が終わると同時にそういった「楽しい時間」がなくなってしまうので、提出日はそういった意味で憂鬱だった。 時間ができると今度は建築巡り。当時はやりのポストモダン建築をくまなく見て歩いた。本当に建築にどっぷり浸かった4年間だった。 設計ばかりやっていたものだから、工学系の単位が足りなくてあわや留年か、という場面もあったが追試を受けて何とか卒業。おかげで卒業設計では最優秀賞を頂くことが出来たのは不幸中の幸いか。 就職の頃にはすっかり景気は冷えこみ就職氷河期。当初、アトリエ事務所での武者修行を希望していた同志たちが次々と組織事務所やゼネコン設計部へと鞍替えして行くなか断固としてアトリエにこだわっていた僕は、当時大学で非常勤で教えていた建築家に拾っていただき、幸いにもそこで働けることになった。 さて1年目。入社半年にして先に勤めていた先輩所員がみんな辞めてしまった。別に反乱を起こしたわけではなく、それぞれに正当な理由があったらしいのだが、代わりに当時始まったばかりのプロジェクトの現場監理を一人で担当することになってしまった。入社半年で肩書きが「設計主任」。建築用語もろくにわからない大卒にこの状況はかなりつらかった。 何が一番つらかったかというと、普通なら隣の席の先輩に何気なく聞くような些細な質問を尋ねる相手がいなかったこと。その代わりに毎晩のように所長直々に一からいろいろなことを教えてもらうことができ、そういった意味ではラッキーだったのかも知れない。 またそれと辛かったのは、アトリエ事務所では所員には少なくとも決定権は無いこと。現場から尋ねられても、全て所長に相談しないといけない。所長が他の仕事で忙しくしていたり、外出してしまうと仕事が止まってしまう。建築では一つ決まらないと全てが止まってしまう事が非常に多いのだ。 とにかく非常に濃い時間であった。結局6年近く在籍することになったのだが、この間に苦労した事は結果的に自分の自信にもなったし、そのあとずいぶんと自分を救ってくれた。 そういえば、本当にこの所長にはよく怒られた。僕はそれまであまり人から怒られるようなことは少なかったように思うのだが、この在籍中に僕はおそらく人の一生分くらい怒られていたように思う。この所長は非常に正義感の強い人で現場などが手を抜いていようものなら、もう大変な事になる。それと同時に所員の怠慢も一目で見抜いてしまうので一時として気が抜けない。所長が入ってきたと同時に緊張の空気が流れるのがわかるほどだった。 それでも事務所的にも一番つらい時期に二人で共働し、時にぶつかり合いながら仕事をしたことで強い信頼関係が築けたように思う。その後所員も増え、事務所を移転することもあったが最後までたいへんかわいがってもらった。 退職の件はたびたび所長にも相談していたのだが、なかなか首をタテに振ってくれない。説得を続けて約2年半、フィンランド行きを理由に、1999年に長年籍を置いた事務所を退職する。その後の活動に関してはホームページに記している通りである。 2001年の夏フィンランドより帰国予定。そこからの僕の建築史はまだ白紙である。 (2001年 冬) |
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幸せを巡る考察 フィンランド行きのために会社を辞めた。 そう僕は今まで周囲に説明してきた。でもそれは正確ではない。事実はそんなに簡単なものではなかった。それは何度も聞かれる質問に対してあらかじめ用意していた簡潔な答えであって、人間そんなに単純な理屈だけで生きているわけではない。自分の中に当時抱えていたグチャグチャしたものを説明するのは難しいが、あえて言うなら僕は焦っていたのかもしれない。 僕は焦っていた。 将来の事に、そして自分を取り巻く色々な事に。変えなくては。僕は自分を変える必要性に駆られていたのかもしれない。 建築の実務の世界は、決して夢のある世界ではない。ドロくさいカケヒキと雑務の連続である。入社して数年の後、「そういうもの」だとわかった。わかったら簡単なもので、要領よくこなして行けばよいのだ。こうした歴然とした事実の前に、甘っちょろい大学生の”建築家の夢”なんてもろいものである。そうして多くの建築実務者は自分の能力をわきまえ、一定の収入を得て安定した人生を歩んで行くのだろう。 僕はそうはなりたくなかった。僕はどこにいくのだろう? 先が見えない。いや先が見えていることが不安だったのだ。このまま文句を言わず歩いて行けば必ず辿り着くであろう目標にどれほどの意味があるのか? 今考えると理由は何でも良かったのだ。ふりだしに戻したかった。何度出しても受理してもらえない辞表の代わりに「フィンランドに行きます」と言ってみた。なぜその時フィンランドと言ったのか、実は今になっても良くわからない。その時かすかに頭をかすめたのが、なぜか新婚旅行で訪れたユハ・レイヴィスカやアアルトの建築だったのだ。奥さんに話すと二つ返事で賛成してくれた。そして僕の心は決まった。 運命の力というのは恐ろしいものだ。僕はそこからの一年間で走馬燈のようにフィンランドにつながる、一生をかけても出会わないようなキーパーソンに次々と出会って行くことになる。もちろんヤリもその中の一人だ。 会社を辞めた11ヶ月後、僕はヘルシンキにいた。そこからの僕らの生活ぶりはこのフィンランド通信に記している通りだが、「フィンランド」を選んだ直感は正しかった事を実感するのに時間はかからなかった。あのとき「デンマーク」と答えていたら、僕らは今頃どんな暮らしをしているだろう? そして現在の僕は自分が望んだ通り、明日も明後日も定まらない不確定な日々を送っている。日本に帰ったらどうなるのか、来年はどうしているのか、さっぱり予想がつかない。でも今の僕には焦りはない。不安もない。日々飛び込んでくる仕事に夢中に取り組み、そしてそれらが予想もつかなかった方向へと進んで行くのが無性に楽しい。 生活自体は日本とは比べようもないほど質素な生活を送っている。でもとにかく言えるのは今の生活には、今確かに生きているという実感があるということだ。明日の食料がある、ということだけで人間は十分幸せを感じる事ができるのである。 (2001年 夏) |