Alvar Aalto


フィンランド・アールト探訪 2001
with
Shuhei Nezu (写真家)




−建築家 アルヴァー・アールト (1898−1976)

 北欧を代表する近代建築(機能主義建築)の巨匠として建築を志す人なら知らない人はまずいない。
もちろんフィンランドの50mk札にも描かれた彼を知らないフィンランド人もまたいない。フィンランドが誇る国民的英雄。それが建築家アルヴァー・アールトなのである。


しかし初めてフィンランドを訪れ、ヘルシンキ近郊のアールト作品のみを見た人の頭には「?」マークが浮かぶかもしれない。つかみどころがない。あまりにあっさりとまとめられた外観故に、期待に胸を膨らませて来た建築ファンはもしかしたらがっかりするだろう。何を隠そう僕がそうだったのだから。

しかし一年のフィンランド滞在を経て、今僕の目に映るアールトは明らかに異なる。ようやくその全体像がおぼろげながらに見えてきた。

時代背景や個人史を踏まえて見たとき、アールトの作品はよりクリアに迫ってくる。このページは僕自身の覚え書きのようなものであるが、後々フィンランドを訪れる人の「アールトの見方」の手助けにでもなれば幸いである。


今回、このページはフィンランド建築探訪の番外編として作成しています。より詳細の写真をご覧になりたい方は、パートナーのShuheiのサイトにも、近日アップ予定。しばらくお待ち下さい。

www.shuheinezu.com






1898/2/3 フィンランド、クオルタネ(Kuortane)に生まれる
1921 ヘルシンキ工科大学卒業、アーキテクトとなる。
1923 ユバスキュラに設計事務所を設立する。
1924 建築家アイノ・マルシオと結婚する。



夜明け前

新古典主義
〜ユバスキュラ時代(1923−27)〜


 ユバスキュラ時代のアールトの初期の作品には、おおよそアールトのイメージとはかけ離れた、新古典主義といわれるイタリア・ルネッサンス調の装飾的モチーフが繰り返し用いられている。

これはアイノとのイタリアへの新婚旅行直後の作品でもある、労働者会館のデザインに最も顕著に現れている。彼のイタリアに寄せる想いは、生涯消えることがなく後年の「白い大理石」へと結びついてゆくことになる。



カルピオ邸(1923)
Renovation of Villa Karpio / Oksalankuja 1
ユバスキュラ駅より徒歩15分。アルヴァー・アールト美術館のすぐそば。

photo© shuhei nezu

カルピオ家の増築及び改築計画。アールト、ユバスキュラで独立後の初仕事。現在でも個人住宅として使用されているが、ユバスキュラ市の所有となっている。
テラスのクラシカルな柱の装飾が印象的だ。



労働者会館(1924〜25)
Worker's Club / Va:ino:nkatu 7
ユバスキュラ駅より徒歩7分


photo© shuhei nezu

ユバスキュラ労働者組合の集会・劇場ホール。アールト、初めての重要な公共建築である。開口部のない劇場空間をトスカーナ様式の柱が支え、内部のディテールに至るまで古典的なモチーフが反復して用いられている。

1階まわりのカフェなどはもはや原型を留めていないが、劇場部分は1983年に当時の状態に修復された。アールト初期の代表作品。



1927 トゥルクに設計事務所を移す


世界へ

機能主義
〜トゥルク時代(1927−33)〜


 世界的な近代建築と呼ばれる機能主義の波はここフィンランドでも例外ではなかった。スイスのル・コルビュジェに代表されるトウフのような白いフォルムと規則的に並んだ四角い窓は、この時代の最先端をゆく国際的スタイルであった。

若く、エネルギーに満ちたアールトがこの潮流をいち早く感じ、積極的に自分の作品に取り入れていった事は想像に難くない。

コンペに勝利し、パイミオに完成したサナトリウム(結核療養所)の設計はアールトの名を一気に世界の建築界に知らしめた。



トゥルク新聞社(1928−29)
Turun Sanomat Building / Kauppiaskatu 5a, Turk
トゥルク駅より徒歩15分。マーケット広場のすぐ近く。


photo© shuhei nezu

フィンランドで初めての機能主義建築であり、そしてフィンランドが世界から注目を集めた初めての建築とも言われる。

ポラス状の軽量コンクリートを断熱材として使用し、アールトの後年のトレードマークでもある円錐型のトップライトはここで初めて試みられた。
印刷室の天井を支える特徴的な柱は、後に何らかの理由で撤去されてしまっているが、メインの階段やオフィス空間は当時のまま残されている。

今ではすっかり近代的になった街並のなかで、少しくすんだ外壁が時代に取り残されたように佇んでいる。



パイミオ・サナトリウム(1929−33)
Sanatorium / Turk・マーケット広場よりバス111番

photo© shuhei nezu

アールトの名を一躍世界に知らしめた出世作。

食堂まわりの開口部や階段室、またドアノブなど丹念に作り込まれた独創的なディテールと共に、多くのアールト家具を産んだ。初期のArtek家具のほとんどはこの病院の為にデザインされたもの。

現在では屋上のテラスは使用されておらず、印象的な前庭のランドスケープも残されていない。また東側のテラスは病室として改造されるなど多少の変更は加わっているが、今尚非常に良いコンディションを保っている。

近々ユネスコの世界遺産に申請される。



1933 ヘルシンキに事務所を移す
1935 アールトの家具メーカー「Artek」を自ら設立


新たな地平

自由な線
〜ヘルシンキ時代前期(1933−49)〜


 機能主義の建築家として世界的名声を勝ち得たアールトであるが、ヘルシンキにアトリエ(兼自邸)を移した30年代中期から彼の作風に微妙な変化が現れてくる。「波(aalto)」である。

アールトが今尚愛され、その名声を保っている大きな理由の一つに彼の魅力的な曲線が挙げられるだろう。この時期のアールトのスケッチには、執拗なほどに波打つフリーハンドの曲線が見られる。

それはフィンランドに広がる無数の湖の湖岸線をも連想させる。彼は誰よりも早く「機能主義建築」の限界を感じ取っていたのかもしれない。



自邸/アトリエ(1934−36)
Aalto Private House and Atrier / Riihitie 20, Helsinki


小さなスケールにまとめられた彼の住宅兼アトリエは、生活の臭いのある明るく静かな空間だ。

構成は機能主義の影響をとどめたアトリエの白いボリュームと、黒く染められた木で覆われた住宅部から成りたっており、吹き抜けを持つアトリエは現在も尚当時の様子をとどめた状態で保存されている。(現在建物はアールト財団の所有となっており、住宅部には財団関係者やVIP向けの宿泊施設となっている。)

アールトの住宅の傑作と言われるマイレア邸より数年早く竣工しているが、こちらは比べようのないほど簡素で控えめな造りとなっている。



ヴィープリの図書館(1927−35)
Viipuri Library / Vyborg, Russia

*

まだ機能主義を強く引きずっている作品だが、講義室の天井には既に大胆な波形のデザインが見られる。

旧フィンランドのカレリア地方に建設されたこの図書館は、ロシア領になった後しばらくその建物の状態が取りただされていた。その後の情報公開によって無事が確認されたが、その内部の状態はひどいものであった。現在では寄付金を募って修復工事が今尚続けられている。

アールトの有名な「スツール60」はこの図書館の為にデザインされ、今尚Artek社によって製造が続けられている。



サヴォイ・ベース(1936)
photo© shuhei nezu

1937年のパリ万国博の為にデザインされたガラス器の傑作。同年にオープンした彼の設計によるヘルシンキのレストラン・サヴォイにも置かれたことから「サヴォイ・ベース」の名でも親しまれている。 アールトの手から描かれたフリーハンドの曲線は、今尚色あせることはない。

20世紀を代表するデザイン。現在でもイイッタラ社で製造が続けられている。



ヴィラ・マイレア(1937−39)
Villa Mairea / Noormarkku

photo© shuhei nezu

アールトの作品の中でも最も美しいとされる、住宅の傑作。

大規模なプロジェクトの多かったアールトは、住宅については次につながるような「実験」ができるか否かが仕事を引き受ける理由の一つであった。そういった意味では彼はこの潤沢な予算を持つ施主の元でありとあらゆる空間やディテールを試みることに成功している。(ここでは日本的な藤や障子のような建具さえも見受けられる)

施主の婦人、マイレ・グリクセンは当時の社交界で最も影響力を持っていた人物でもあり、アールトがArtek社を設立する際の出資者の一人でもある。この家で育った息子の建築家クリスチャン・グリクセンは現在もフィンランド建築界で活躍している。



1946−48 米・マサチューセッツ工科大学にて教授を務める
1949 妻、アイノ・アールト死去
1952 事務所のスタッフ、エリッサ・マキニエミと再婚


回帰

赤レンガ
〜ヘルシンキ時代中期(1949−55)〜


 アメリカの大学に教授として招かれるものの、アメリカの表面的なライフスタイルに馴染めず、わずか2年で帰国してしまう。

また帰国直後の彼には最愛の妻であり、仕事のパートナーでもあったアイノ・アールトの死が待っていた。この時期を境にアールトは「赤レンガ」という素朴で、伝統的な素材を執拗に使った設計を行うようになる。

この時期の重要な作品には、セイナッツァロの役場やサマーコテージ、そしてユバスキュラ教育大学など彼の”故郷”にその多くが残されている。

アールトのターニング・ポイントだ。



ヘルシンキ工科大学(1949−74)
Helsinki Univ. of Technology / Otaniemi, Espoo
ヘルシンキよりバス102,103,194,195番、約15分。



アイノが亡くなった同年、亡き妻を称える、というペンネームでこのコンペを制した。モニュメンタルな講堂は古代ローマの広場を連想させる。

このコンペを巡ったエピソードに、当時の審査委員の一人にアールト事務所のスタッフが混ざっており、アールトの案に決めるべく大立ち回りを演じたというのがある。真偽のほどは確かではないが、彼の母校であるこの大学のコンペに彼が燃やした執念を考えると、あり得る話である。

赤レンガで埋め尽くされたキャンパスの中に二棟だけイタリア産の白い大理石が貼られている建物がある。一つは図書館、そしてもう一つは建築学科、「文化の象徴」である。




セイナッツァロの役場(1949−52)
Sa:yna:tsalo Town Hall / ユバスキュラよりバス16番、約30分

photo© shuhei nezu

赤レンガ時代の傑作である。

彼は1945年にセイナッツァロのタウン・プランニングの提案をしている。結局これは実現に至らなかったものの、後年開かれた村役場のコンペによってこれらは大きく開花することとなる。

この作品へのアールトの愛着は強く、ある日この建物の壁に掛けられたネオンサインを見て石を投げて壊してしまったというエピソードも残っているほどだ。(もちろん警察沙汰になったことは言うまでもない)

また実際この建物に見られるディテールや議場に至るまでの構成などは他のアールトの建築には見られないものであり、そのスケールに至るまでその完成度は非常に高い。



ムーラッツァロの実験住宅(1952−53)
Muuratsalo Experimental House /
ユバスキュラよりバス16番、約40分


photo© shuhei nezu

事務所のスタッフであったエリッサ・マキニエミと再婚したアールトは、セイナッツァロにほど近いムーラッツァロに「実験住宅」と呼ばれるサマーコテージを建設した。

敷地の選別に当たっては、セイナッツァロ役場を建てた建設会社の社長が所有していた膨大なムーラッツァロの敷地の中から、彼が設計したムーラメ教会が見える岬に彼は敷地を定めたというエピソードもある。(撮影当日は雨で何も見えませんでした)

壁面にはありとあらゆるレンガの張りパターンがパッチワークのように美しくレイアウトされている。
アールトはソーラーパネルの設置も考えていたが、これは実現しなかった。「夏」を意識しているせいだろうか、内部は至って簡素な造りである。




ユバスキュラ教育大学・本館(1954−56)
Jyvaskyla University / ユバスキュラ駅より徒歩10分

photo© shuhei nezu

ユバスキュラ大学・本館は、ユバスキュラの街のランドスケープにもなっている。
適正なスケールで端正なたたずまいのメイン・ホールは小規模ながら完成度は高い。手摺りからエントランスのディテールに至るまでかしこにアールト・ディテールが見られ、アールトらしい上品な空間構成だ。

レクチャー棟に昇る階段から落ちる光はどこまでも静かで柔らかく、どこか古代ローマのパンテオンを思い起こさせるような印象的な空間である。



文化の家(1952−58)
House of Culture / Sturenkatu 4


波打つような外壁がホールをすっぽりと包み込んでいる。この流れるような曲線の為に、アールトはレンガを特別にデザインしている。

建物の相似形のようなそのレンガ形状は、外観からはまるでウロコのような、有機的な印象をうける。下から見上げる「波」は見る角度によって様々な表情を見せてくれる。

建物向かって左奥上部にちょっぴり飛び出したポーチが見受けられる。これは必要な部屋を見落としていたアールトが後から取りつけた「失敗」であるが、今では最も多くの写真に納められているデザインの「要」となっている。失敗すらもデザインしてしまう、そんなアールトの仕事ぶりが垣間見える部分だ。



1955 ヘルシンキ・ムンキニエミに新たなアトリエを建設。(現在はアールト財団が使用)


金字塔

白い壁
〜ヘルシンキ時代後期(1955−)〜


 国内外において揺るぎない地位を確立したアールトのアトリエでは、常に複数の大きなプロジェクトが進行し、彼が生涯で最も忙しかった時代である。

この頃になると再び彼は機能主義の象徴でもあった「白」を再び使い始める。しかしこれは回帰ではなく、機能や土着性をも越えた「なにか」を模索し始めた頃でもあるように思う。

彼の死後もなお多くのプロジェクトが完成している。彼の遺体はアイノ、エリッサと共にヘルシンキ・ヒエタニエミの墓地に眠っているが、フィンランディア・ホールの突出した劇場空間の造形こそが彼の遺作であり、そして墓標でもあるように僕には思えるのだ。



ヴォクセンニスカ教会(1956−58)
Vuoksenniska Church / Imatra駅よりバスで約10分


三つの大きなアーチを持った天井と、あらゆる方向に設けられた開口部、そして計算されたかのように祭壇を照らすトップライト。

彼の流れるような曲線が空間と程良く融合し、静かで柔らかい彫刻的空間を形作っている。時折それはコルビュジェの傑作、ロンシャン教会と比較される。

実際、彼がデザインを開始したほぼ同時期にロンシャンは完成しているがアールトの空間はロンシャンのそれより、より機能的でその素材の扱い方においてもより繊細な印象を与える。

その凛とした白い輪郭は、湖にに降り立つ一羽の白鳥を思い起こさせる。どこまでも品格のあるたたずまいである。



フィンランディア・ホール(1967−75)
Mannerheimintie 13, Helsinki

photo© shuhei nezu

白い大理石をふんだんに使ったミュージックホール。ヘルシンキの象徴であり、アールト晩年の傑作でもある。

アールトはその晩年、テーレ湾を囲んだこのエリアの過去数度にわたるコンペ案を下敷きにして、ミュージックホールを含めた巨大な都市再開発プランを発表している。結局この内実現したのはこのミュージックホールだけであったが、彼にはフィンランドを背負った建築家として、「自分が建てる」という明確な自負が常にあったのだろう。

結局、このホールの完成を待っていたかのように彼はこの世を去った。内部には生涯蓄積してきたであろう彼の建築のエッセンスが詰まっている。



1976/5/11 ヘルシンキにて死去




さいごに

今回このページの作成に当たっては、アールトの膨大な作品の中から特に重要と思える作品、中でも実際に自分で足を運んで確認できたものを優先して載せてあります(近日訪問予定の建物も含みます)。

また個人史等については、アールト美術館の資料を参考とさせていただきましたが、各作品の解釈や時代の分け方については、多少の思いこみや誤解が含まれている可能性もあります。
そうした箇所や矛盾等ございましたら遠慮なく御指摘下さい。



その他の関連情報について〜
 - アールト関連書籍は こちら から
 - アールト関連情報は こちら から


Photo:
根津修平
*印・筆者
参考写真はコピーライトを
示してあります。


参考文献:
「ALVAR AALTO IN FINLAND」
「ALVAR AALTO'S JYVASKYLA」
Alvar Aalto Museum



フィンランド建築探訪